時の雫-other/溝口亮太

綺麗な横顔




 その存在を認識したのは、壇上に並べられた椅子に座っている時だった。
凛とした姿勢。揺らがない、前方に向けられた眼差し。
慄然としたその横顔は綺麗だった――

  あの視線の先には何が見えているのだろう。そして、何があるのだろう。




 春日美音と出逢ってから、どれだけの月日が過ぎ去っても、これから先再び会うことがなくなっても、思い出すのは同じ場面だろう。
それだけ、溝口亮太の中にはそれが刻み込まれている……。




女子生徒がマイクの前に立ち一呼吸つくと、多少ざわついていた構内も波打つように静まり返っていった。
そして、その場の雰囲気に飲まれることなく、緊張を微塵も感じさせる事なく、ゆっくりと、耳に入りやすいトーンとリズムで演説を始めた。

その女子は春日美音。

そのときの亮太は、見た目と違い可愛い名前してんな、と思った。
 その位置から見た限りでは、美人という感じでもなかった。
だが、親しみやすいとか、可愛いとかそんな系統ではないと感じた。
だけど、人目を惹く容貌をしている。見る人によっては可愛いと言う人もいるだろうし、美人と言う人もいるだろう。
……もしかすると、このまま関わりあう事もないような、そういう縁もない、と思うるタイプだと感じたのだ。

 その時の美音の演説を聞いて、十中八九当選するだろうと思った。あともう一人の女子、橋枝薫にも。
薫は、男受けするだろう甘い系の顔に、言う事は隙を見せないしっかりとした演説だった。
生徒会立候補者は5人。残りの2人は男。

……多分、この女子二人は当選するだろう。
男だから選ぶ、そんな甘い考えの生徒が通うような学校じゃない。
自分はおそらく落選するのではないか。

そんな思いを浮かべながら、演説すべくイスから立ち上がった。



 そんな立会演説を終え、数日後、当選者が掲示板に貼り出された。
当選人数は3人。
亮太は、女子2人の当選を決め付けて、自分は当選外だろうと掲示板を見上げた。
「……」
けれど、その掲示板にはしっかりと溝口亮太の名前が書き記されていて、本人は一瞬、幻かと思った。

  予想通り女子2人は当選。その中でもまれる訳か……。



 次にメンバーと顔を合わせたのは、翌週の、教員室の隣の談話室で行われた新任者顔合わせでだった。
終礼の時に担任から新役員は教員室に来いと言われ、行ってみれば談話室に通されたというわけだ。
少しばかり初めての場所に敬遠する気持ちで中に入った亮太の目に映ったのはたった一人の人間だった。

立会演説のときに見た横顔があった。
壁に貼られている物を、あの時と変わらない横顔で見ている。
 何か声をかけるべきか、そう悩んだ。が、かける言葉なんて思い浮かばない。
そうこう考えているうちに、その女子はこちらに目を向けた。
一瞬目が合った事に意識ははっとする。
何かを声に出そうと思ったときには、不機嫌そうにフイッと顔をそらされて、釈然としない気分で、適当な場所に座った。

  軽い会釈も挨拶もなし。まぁ、そんなものできる奴の方が少ないだろうけど。
  でも一番印象悪く思ったのは、目が合って嫌そうにされた事だ。
  お高くとまっているのか。
  それとも気があるとでも思われたのか。そうだとしたら、こっちの方が迷惑だ。

ふてぶてしく思いながら、その場の、微妙に重い空気を感じていた。

それから程なくして、その女子の名をすっかり忘れていることに気付いた。

  何ていう名前だったか?

聞いたとき、何かを思ったのは覚えているが肝心の名前は頭から抜けていた。消化できない気持ち悪さに堪えられなくなったから思い切って聞いてみた。
「なぁ、名前、なんていうんだっけ?」
その横顔が驚きに変わったのを見た。
そして、その顔が嫌そうな表情に変わると少しばかりこちらに視線を向け言った。
「春日だよ。溝口君」

  ああ、そうだ。そんな名だった。

スッキリして納得した。

それから気付く。彼女が亮太の名を口にしていたことを。
亮太はすぐ気付いた。
それは主張だという事を。こっちは同じ役員の名前くらい覚えているんだけど?という。
そういう投球をしてくる美音に、少しばかり「やりずらい相手」という感触を抱いていた。

 その後にもう一人の新役員がやってきた。
扉を閉めて中を見ると、美音の横に行き、イスの背もたれを持ち笑顔で声をかけていた。
「橋枝です。宜しくね」
すると美音は笑顔で答えていた。
「こちらこそ」
それに薫は嬉しそうな笑顔を浮かべて座った。

  女子二人。しかも橋枝は春日に好意を持っている様子の中に男一人。
   こんな中で2年間役員を務めるのか……。

少しげんなりした気分になっていた。



  ――あの時の春日の反応は、それからも似たようなものだった。
  俺に対してはツンとした愛想のない顔。
  それを見るたびにむっとしていた。
  先輩に対するときとはあからさまに態度が違うんじゃないか?
  そう思わざるを得ない。



 新役員として初めてある仕事を任された。
生徒会と言っても大した事をするわけじゃない。大体が雑用だ。
だから、面倒であっても難しい事はない。
そんなに力を入れるものでもないだろうと、亮太は考えていた。――

「じゃ、これはそれで決定だな。はい、完了」
これ以上する事は何もないと言わんばかりに書類をぱさっと置いた亮太に美音は言った。
「え?そんなでいいの?」
その驚いた表情をした美音に、亮太は内心むっとしていた。
「なんだよ。ちゃんとやることやっただろ」
美音はそんな亮太に、「やった」だけじゃないかと言った。

ケチをつけてきた。
何をそんなにやる必要があるのかと思った。

やる事はやったと言い切る亮太。一歩も引かない美音。
喧嘩と言うほどではない。軽い言い合いだった。
お互い平行線のまま、その時は終わった。
その後、とてもすっきりとしない気分、苛立った心に亮太は陥っていた。こんなにも苛立ったのは初めてとも言えるほどだ。
そして同時に思う。
可愛げのない女。やりずらい女。良いと思ったのは遠目からの姿だけか、と。
それから、二人の関係はそんな様子が続いた。
話をするのは仕事の事ばかり。それも「穏やか」とは違う。
美音の物言いに一歩も引かない。女に負けてたまるか、という気持ちが強かったのではないかと、亮太は後になって思う。
自分のやり方も間違っていないと思っているし、言いがかりだ、と亮太は感じていた。
そして、自分のやり方、思う通りじゃないと納得できないのか。と、美音に対して、そう思っていた。
「だーかーらー、それじゃ後で絶対やり方に困るんだってば」
亮太はうるさく言ってくる美音に辟易していた。
「あー、そうかよ」
荒立った声が亮太の口から出た。
本当はもっと言葉を吐きたかったが、どうにか堪えて口を閉じた。
ここで言いたい言葉を吐く人間もいるだろう。だけど、亮太はそうはしなかった。
これ以上に場の空気が険悪になると、さすがに逃げ場がなくなると思ったからだ。
だから、燻っている心の中に決断する。
この席から立ち、扉の向こうへと行く事を。
このままではいずれ感情が迸ってやばい状況を産みかねないと判断したから。
「ちょっと!」
「好きにやれよ。俺はちょっと休憩に行ってくる」
それはもう投げやりの声に聞こえただろう。
「なっ……、あんたが納得しなきゃだめでしょーが」
美音の声を遮断させるように扉を閉めた。
心の中で「知るかよ、そんな事」と吐いて廊下を行く亮太。

この喉の奥に突っかかるようなすっきりとしない苛立ち。
日中でも、生徒会があるのだと思う度に感じていた。
毎日積もっていくそのストレスは結構な大きさになっているだろう。
まるで大きな壁のように存在する春日美音。

  クラスの奴らは、春日に対するのは好意だけ。それで俺に聞いてくる。
  それらに答えるのだって嫌だった。
  ――あんな女。

  そんな風にしか思えなかった。

  役員の先輩方は何も口を挟まずに見守っているだけだ。
  トキに、温かい微笑とも取れる表情が浮かんでいる。
  また、それは俺にとって面白くない事でもあった。
  俺は何も間違っていない。なのに、周りは俺じゃないほうを見る。面白くなかった。
  「目の上のたんこぶ」的な存在になっていた春日が、当初、俺のことをどう思っていたのかは知らない。けれど、お互い印象は悪かったろう。
  決して「仲良くしよう」とは思えなかった。何も楽しいとは思えなかった。



 ある日、教員室の近くを通ったとき、立ち話をしている美音と薫に気付いた。
話の内容を知りたいと思っていないはずなのに、耳は会話を聞いていた。
「春日さんって、溝口君には言い方とか態度とかきついよね?」
「……え?」
「本当は結構嫌い、だとか?」
聞こえてくる薫の質問に、亮太は心の中で肯定している。亮太からすれば、それ以外の現実は考えられないからだった。
 そして、あの時、横顔を見て綺麗だと思ったのは錯覚だ、とも思っていた。
「……え、と」
口ごもる美音に、亮太は思う。

  「結構嫌い」ではなく「かなり嫌い」の間違いだろう。
  まぁ、そういう表現をしたのは、橋枝なりの気遣いというやつだろう。それぐらいは分かる。

嫌いという言葉だけでなく他の言葉が飛び出すのを身構えていた。何を言われるのか。何を言われても動じないように。
けれど、聞こえてきた美音の言葉は、亮太には予想外だった。

「私、きつ、かった?」
「……うん」

その二人の台詞が頭の上を素通りしていった気分だった。
何を言っているんだろう?とも茫然と思っていた。

「そういう意識はなかったんだけど、……」

それに、説明のつかない軽いショックを受けて、この場から亮太はひっそりと去っていった。

   よく言うもんだ。と半ば感心しながら歩いていた。
  とっさに聞かれてあんな台詞が出てくるなんてたいしたもんだ。
  あんなの本心なわけがない。くえない女。

   春日への印象は尚悪く、仕事への態度は相変わらずなまま俺はいた。
  ……あの時、予想外の言葉をそれ以上耳にしない為に逃げていったのに。
   俺の態度は変わらなかった。というより変えないようにしていた。
  なぜなら、時折春日が何か言いたそうにしているのに気付いていたからだ。
  目を合わせないようにし、顔も向けない様にして、空気を変えないつもりでいた。
  あの女の言いたい事なんか聞くもんか。
  全てを春日から背けたままだった。



 後日、頼まれた書類を仕上げて教員室へと向かっていた。
たまたま一人でいたときに顧問から頼まれた仕事だったから、他の誰に手伝わせる事もなく目を通してもらうわけでもなく仕上げたものだった。
頼まれた仕事を滞りなく終わらせた、という気持ちだけがあって顧問に渡した。
早さに笑顔を見せた教師だったが、それに目を通すとその表情は曇っていた。
「うーん……、急がなくていいからもう一度見直してみてくれるか」
「……はぁ」
そんな反応が返ってくるとは思っていなかったのだろう。
そのときの亮太の返事は乗り気ではない声が出ていた。
頼まれた仕事をしただけなのになぁ、と思いながら廊下をぼんやりとしながら歩いていった。

  俺は「俺としている」だけなのに、他人の視線は俺を素通りしていく。
  それを思うとイライラしたものが込みあがってきていた。
  これでいいじゃないか。間違ってないじゃないか。そう思う。

抱えたままのイライラを押し込むように無視して。

 戻った生徒会室には、足立と美音の二人だった。
亮太は不機嫌とも取れる表情で、手にしていた書類をぱさっと置いて席に着いた。
二人の会話が途切れたとき、足立は椅子から立ち上がりこの部屋から出て行った。
新たに訪れた状況に、居心地の悪さを感じているのは亮太だけだったろうか。
そして、頭に浮かんでくる光景を必死で掻き消す亮太。
つい前の美音の台詞が頭に思い出されようとするのを必死で止めていた。
「……」
重い空気を感じているのか、それとも亮太が出しているのか。
いくら書類を見直しても何を直すべきなのか分からない亮太。
 結局直した箇所といえば些細なところだけで、内容は何も変えられなかった。
これを持って行っても、また見直せといわれるのは分かっていた。
けど、何が駄目なのか分からない。

  ……これが俺でなく、春日だったら分かっていたんだろうか。

ふとそんな思いが湧いた。
それじゃ駄目なんだと、うるさく言われているように感じている。
分からない目の前の書類と、今まで積もり積もっていた苛立ちが、亮太の中を渦巻き始めていた。
「……なぁ」
それらの感情を流す気持ちで、頬杖を突きながらそう声を放った亮太。
怪訝そうな顔と声で美音は言った。
「……何?」
「これ、急ぎじゃなくやり直す書類」
ぱさっと無造作に置いた書類に、美音は静かに手を伸ばし内容を確認していた。
「……あぁ」

  納得したような声に、カチンときた。
  俺にはわからないことが、こいつにはすぐ分かったんだ。

がたんと音を鳴らしながら椅子から立ち上がり言葉を放っていた。
「じゃ、そういうことで」
「は?」
むかむかと込みあがってくる思いを抑えながら背を向けてドアに向かっていた。

  こいつの一声だけにだって腹が立つ自分にこの時はまだ疑問を感じていなかった。


「待ちなよ、溝口亮太」
反射的に足を止めていた。
背後から襲ってくるかのような威圧感と、体のそこにまでどしっとくる据わった声。
突然変わった空気に、亮太は見えない汗をかいた気分になっていた。
「な、なんだよ」
肩を向けたものの、顔まで向ける気にならなかった。防衛本能が働いたように。
「その行動はおかしいでしょ。自分が担当して完成が認められなかったものを放り投げるなんて」
少しもひるむ事ない声で発言してくる美音の姿は、立会演説のときと変わらないものだった。その事に、心の中で苛立つ何かを感じた。
「できる奴がやったら良いだけの話だろーが」
感情を吐き出したいと思いながら放った台詞。
それに対して又美音は正論らしきものを返してくるのだと思っていた。

「……いつまでそうやって逃げんの?」
感情が荒立った顔で美音を見て、……瞬後、凍てついた亮太。
そして、心の中は後悔の念に駆られる。向けなけりゃ良かった、と。
最初はカチンと頭にきたのに、今はもう怯えにも似たものが亮太を襲っていた。
まっすぐにこっちに目を向けてくる美音の目は圧倒されるくらいの気迫があったからだ。

  こんな女、今までの人生の中であった事ない。

「溝口亮太と私は、同じ書記なんだから対等のはずでしょ。なのに全部押し付ける気?できない事面倒な事全部。人のこと、女だからってバカにしてんの?自分は男だからってそんな態度でも認められるって思ってんの?
周りがあんたを分からないんじゃなくて、あんたが分かろうとしてないんだよ。分かろうと思えば、ちゃんと聞こうとすればすぐ出来る事を、思い込みや意地だけで聞かないで出来ないままでいるのは溝口亮太でしょう。
私はあんたのお守じゃない。自分のプライド守るために人を利用しないでよ」
真っ直ぐと向けられている目は今の亮太にとって正視できなかった。
「なっ……、うるせーよ。俺がっ、何だって言うんだよ。勝手な事言ってんじゃねーよ」
今までの思いが言葉になって出た台詞だった。
「だったらちゃんと反論して見せなさいよ。私が納得できるように。私の言う事が勝手な事って言うんだったら自分の仕事くらいこなしなよ」
美音のその言葉に、思うように言葉が出てこなかった。
「俺は、お前とは違うんだよっ。好き勝手な事言ってんじゃねーよ!生徒会なんかやらなきゃ良かったよ!お前みたいな女がいるんだったらならなけりゃ良かった!お陰でこっちは最悪だよ!毎日毎日ストレスばかりで!」
そう出てくるまま言い放って、今までの燻っていた感情が噴火したように感じた。だけど、一向にスッキリする気配がない。
そして、何気なく美音の顔を見て、亮太はぎくりと硬直した。
目を大きく開けて今にも泣き出してしまいそうな顔をしていたからだ。
だが、それはほんの一瞬の時間だった。
美音の表情が変わったのを見る前に亮太の顔には大きな衝撃が飛んできたのだから。
つかつかと歩み寄ってきいった美音は思い切り亮太の顔を殴った。
「……お、おま……、ぐぅで殴るか?!ぐぅで!」
「あんたの顔なんか平手は勿体無いわ!ぐぅで十分だわ!」
「じゅ、十分って……」
今まで思っていた美音の姿とは違うものを見せられて戸惑いを隠せない亮太だった。
今まで見ていた春日美音は何者だったんだろう、と思うほど。
「人のせいにしないでよ!自分の事棚に上げて!鬱陶しい!やる気になったら出来るくせにいつまで甘えてんのよ!バカ溝口!」
「ば、ばかとはなんだ!」
言われた事に反応するのはそこか?という返答だった。

  つい一瞬前に思った反応とは違う春日の行動に十分すぎるくらい面食らっていた。

「だってそうじゃないの!人の事避けまくってやる気のかけらも見せもしないで!」
「お前、自分基準にもの考えんな!俺の事知りもしないで憶測で話してんじゃねぇ」
「こんだけ見てれば十分分かる!新役員3人の中に男一人。一緒の書記は自分とは違う仕事の仕方に腹が立って受け入れない。だけど自分の仕事は周りに納得のいくものにならない。範疇外の仕事に最初から考える事を拒否してる。……何が違うっての?!」
詰まることなく出てくる言葉に、半ば呆気に取られている亮太だ。
そして、そこまで分析されていたとは思ってもいなかっただろう。
いや、最初から考えていなかっただけだ。美音が自分のことをどう思っているかなんて。
何か言い返そうと思うのに、何も言葉は出てこない。
心の中にあるのは、困惑。ひたすら困惑だけだった。

 そこでようやく亮太は目の前にある存在に目を向けた。
きっとした目で真っ直ぐと見ている姿。

  多分それは、あのときに見た横顔と同じ顔なのかもしれない。
  見つめる先が俺に変わっただけで。

だが心の中に形容できない感情が湧いていた。掴めない、今まで味わったことのないものだった。それをどうすれば良いのかなんて分からず、ただ、無暗に吐き出そうとした。
重苦しい沈黙に感じた。緊張とは違う重圧みたいなものがそこにはあった。
体の中で、それを止めようとする抵抗もかすかにあった。
だが、亮太はそれを一切無視しようとした。

「……うるせぇ。……俺は、お前なんか、」

そこまで口に出したとき、その場を収拾させるようにいつの間にか入ってきていた足立が声を放った。
「はい、それまで。とりあえず頭冷やそうか」
静かだが従わせる強さがあった。
はっとした亮太はそこで今の自分の姿を見た。
「あ、はい……」
急に大人しくなって従った美音を見て、瞬間的にだ、再びいらっとしたものが湧いた。
そこから顔を背けて席についた。その感情をやり過ごす為に。
「あ、そうだ。春日さん、忙しいところ悪いんだけど、橋枝さんを手伝ってきてもらえる?」
「あ、はい、分かりました」
返事をしながらもう外へと向かっていた。
静かに扉が閉められたのを耳にしても、亮太は動けなかった。
亮太の中で気まずい空気が流れている。
 足立は静かに亮太が座っている席の向かいに腰を下ろした。
「溝口君」
静かだが有無を言わせない力がある声だった。
嫌な思いを押し込んで顔を向けた亮太。
静かに見つめてくる足立の顔には何の感情も読み取れない。
それを見て、亮太は一人静かに覚悟を決めた――


   足立さんに言われたことは全て正論だった。
  覚悟を決めたとはいえ、ひどく心に突き刺さった。
   俺がやった仕事の全てを春日がひっそりとフォローしていたのだと知らされた。

「春日さんは誰かに認められようと仕事を完璧にこなそうとしてるんじゃない。自分が納得行く仕事をしてるんだよ。僕らが口を出しても素直に聞くし素直に受け入れることも出来る。けれど、それも一人では限界があるんだ。一人では出来ないこともわからないこともあるだろう?それぞれの歯車がうまく合わないと全ての結果は成功を導き出せない。同じ役員の君がそんな対応のままじゃ今期の生徒会役員は力不足だという評価をされるんだ。それは君にとっても屈辱的なことだろう。僕らにもそれはとても許しがたい」
「……すみません」
「溝口君はまだ本気を出していないだけで、やる気を出したら、いい仕事するだろうって春日さんはいつも僕らに言っていたよ。……見込み違いだったと思わせてほしくないな」
あまりの胸の痛さにこぶしに力が入った。

 美音のことを思い出したと同時に、頬の痛みを感じた。
女にこぶしで殴られたなんて初めての経験だ。それも結構痛い。

   一体あいつはどんな女なんだ。
  男にぐうで殴る奴がいるか。

「……はぁ」
出すつもりはないものの勝手に出るため息。
今までとは違う意味で気が重かった。

   ……穴があったら入りたい。顔も体も全部すっぽりと隠してしまいたい。

自分の子供さ加減をはっきりと思い知らされたのだ。
 美音に向けていた苛立ちは、全部自分へのものだと知ったから。
面倒な事はしたくないという思いと、自分は今のままで良いという思い込みか、防衛かで、現実から目を逸らしていた。

   その存在をはじめて認識したときに感じた事と、考え方を初めて聞いたときに感じた事と、その人間そのものと初めて接したときに感じた事は全部違うものだった。
  だから、心の中では困惑していた。
  目を惹く外見。やり手だと、しっかりさを感じさせる考え方。まるで無愛想で、距離を感じさせる態度。
  全てばらばらで、気分が悪かった。
  同じ役員でありながら、最初から対等になんてなってなかった。
   というより、俺のことは春日にすれば、視界の端にも入ってないだろうと思っていた。
  だから、癪に障ったんだ。
  それはまるで子供だ。
  自分がそうだったなんて心が重く感じるくらいのショックだ。
  でもそれは事実だった。周知の事実。
  情けなくて、恥ずかしいくらいの……。

「はぁ」
出すつもりはなくても勝手にため息は出てくる。
足立が言っていたことを思い出した亮太は、最初のときの、途中で放り出した書類をファイルから探し出した。
きちんと分けられていて見出しもついていた。きっちりとした細かい気配りがそこには感じられた。
内容に目を通して、……納得した。
美音が言っていた事。自分が不足していたところ。
そして、見直してくれと言った教師の言いたかった事が。

  ……なぜ、春日はそれらを分かるんだろう。
  俺と同じ高校に入ったばかりの生徒で。

そしてそこには、どんな仕事にも揺らぐことをしない美音の存在を亮太は感じた。
「はー、完敗じゃねぇか」
ため息交じりにそう言って椅子に座った。
虚脱感を体に抱きながら天井を眺めるその仕草に、今までの倦怠感は見られない。
一人でいるその部屋は沈黙しかない。
だから、一人で声を出す。
「しかし、足立さんって温和そうに見えて、軽くきっつい事言うなぁ」
けれど、一番、言わなくていい余計なことを言わないですんだのは彼のお陰だった。
あの時、足立が入ってこなかったら、亮太は間違いなく一番美音を傷つける言葉を吐いていただろう。そして、本当は自分にとっても不本意な言葉を。
思わず頬杖を突こうとして広がった頬の痛みに声が出る。
「いってぇ。……」
痛みを感じながらも、亮太は頭の中で考えていた。
次に顔を合わせた時、どんな顔を向ければ良いのか。何を言えば良いのか。
適当なそれが思い浮かばない。
こんな状態になっても、ごめん、悪かった、と謝れないと思うのは、つまらない男の意地なのか、と、亮太自身が思っていた。
またため息が出そうになったとき、空気が変わるようにガチャとドアが開いた。
亮太は無造作に顔を向けて、ぎくり、と心臓が萎縮するような音を立て体が硬直した。
 一番顔を合わせたくないと思っていた美音だったから。
けど、それは一瞬にしてすっとぶ。
「ああ!ほっぺ腫れてる?!ごめん!思わず手が出て……。ほんと、ごめん」
焦った様子で謝る美音に少し戸惑いを感じながらも、ごめんと口にすることが出来ないと思っていた亮太の前で、その言葉を簡単に口にする姿に、胸の中にふつ、と湧く何かを感じた。
「何か冷やすもの持ってくるから」
そう言って、この場から背を向けて行こうとした美音に声を放った。
「いーよ、大した事ないから」
亮太の、こういうときに出る不思議な見栄。
けれど、美音は、少しだけ驚いた目をしてすぐ笑顔で言った。
「それでも、持ってくるよ」
扉が閉じられたそこから、今までとは違う風が吹いたように感じていた。

さっきまで亮太の周りに漂っていた気まずい空気は吹き飛んでいた。

   やっと落ち着いた俺は、深く息を吸った。
  しんと静まり返る生徒会室に、自分の居場所を見つけた瞬間でもあった。
   出遅れてしまった俺は今から急ピッチで追いつかなくてはいけない。
  最初から、凛として前を見据えていた春日はかなり先を行っている。

「……やるしかないか」

  自分を確実に納得させる為、そう言葉を放った。
  そして、感じていた。
  俺が何を言っても聞き入れない春日の姿を。
  その強さを、あの横顔から感じていたんだろう。
  そして、自分が敵わないところを、最初に感じ取っていたんだ。
  ……あの視線の先にあるものをいつか見られる日が来るだろうか。




自分の席から見える空を眺めていた亮太はふっと笑みをこぼした。
今まであったもの、これからあるもの。それはきっと変わらないものだと今はもう知っている。
「亮太ぁ、これ見直しお願ぁい」
手に持った書類を掲げて生徒会室に戻ってきた美音に顔を向け、亮太は笑みを浮かべて言った。
「あいよ。その前にお茶でも飲むか」
「やったー。亮太の入れるお茶が一番美味しいんだよね」
「へいへい。ここでの俺の専売特許ですから」
「ははは、何言ってんの」
受け流すように笑って言った美音に、仕事ぶりも信頼していると言っているのが分かる。
亮太は笑顔のまま、美音には背を向けてお茶を淹れる――。



2008.12.2
あとがき


  素材:工房雪月華,SampleLife タイトル: